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自営業60代のジジイぢゃ^^
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遺体の身支度を整えてくれている看護婦さんから、
「ご自宅にご遺体を搬送するための連絡は済みましたか?」
と問われ、ようやく事態が急展開したことや、私がしなければ
ならない事が山ほどある事に、気が付かされました。

覚悟はできてはいたものの、いざその場になってみると
混乱、動揺、狼狽・・・しばらく頭の中を整理していた。

葬儀業者への電話連絡。お寺様への連絡。
自宅の整理と受入体制の役割分担。
病院からの死亡届等の書類の取扱。
様々な事柄について、一つ一つ確認しながら事を進める。

病院から遺体搬送するために、主治医と看護婦さんに最後の挨拶を
した後、妹が乗った遺体の搬送車を一人で見送る。
この時ばかりは、涙声でちゃんと挨拶ができなかった。
急いで自宅に戻り、遺体を安置する。

近親者が父の顔を見に来る。
治って帰りたかった家に、亡くなって帰って来た。
静かに安置され、顔には白い布がかかっている。

この時はまだ、感傷的な場面を実体験しているというような
ふわふわした感じがしていて、
これから始まる葬儀一切の流れも大変さも想像できてはいなかった。
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11月5日(金)朝、出勤前に病室を訪ねる。
充分寝た母と、安定した呼吸をしている父が居た。
主治医も病室に来ていた。反応を確かめる。
身体を大きく揺らしながら「横山さん!」と呼びかけたそうである。

僅かながら意識が戻っていた。

私は父の耳元で・・・・
「ゆうべは、母が悪口を言っているのが聞こえたかい??」と問い掛けると
ゆっくりした呼吸を続けながら、頭を左右に振って「NO!」という表現をした。

驚いた。意識は回復していた。

急変を知った埼玉に住む妹は、土曜日に帰る予定を変更して
今日の午後帰って来る事を父にも告げ、頑張るように伝えた。

母も少し安堵しつつ、病院で父を見守ることにしたらしい。
自宅に帰ることもせず、近親者の訪問を受けながら、
容体の変化を見続けていたようであった。

しかしながら、朝の反応はすぐに無くなり、またもや静かに眠っている。

午後3時を過ぎた頃、豊栄駅まで妹を出迎え、車で病院へ。
母と妹は二人で父を見守り、安定している様子を確認しつつ、
母娘の久しぶりの会話を父に聴かせていたようでした。

弟から電話があり、夕方には病院に来るとのこと。
妻にも5時過ぎに病院へ行って、母と妹を迎えに行くようにと
告げてあり、5時前後に入れ替わりを予定していた。

PM5時過ぎ、病院の妹から電話あり。
父の血圧が低下し、危篤状態とのこと。急いで病院に急ぐ。
すると、病院入口で弟と会い、一緒に病室に行くと、
母、妻、妹が多少オロオロしながら父を見守っていた。

親しく看護してくれていた看護婦さんが、モニターの数値を確認しながら
家族に状況を説明していただいた。
父の心臓はかなり弱っている様子で、それほど持たないことも
教えていただいた。

安らかな最期を看取りたいという気持ちで、みんなで見守った。

自力の呼吸をつづけていたが、呼吸と呼吸の間隔が延びてくる。
呼吸が止まったような気がするが、再び大きな呼吸をする。
それの繰り返しが15分ほど続いたが、最後の呼吸をしたあと
まるで息をするのを止めたかのように、静かに亡くなった。

本当に家族が集まったその時を待っていたかのように
みんなに見守られて、静かに、おだやかに、臨終を迎えた。

母や妹の苦渋の涙の前で、85年を超える人生を終えた。

望む学校にも行けずお国の為に軍隊にも入隊し、
戦後の混乱期に翻弄されつつ、働き、働き、働き、
自分の父を早く無くしたため、兄弟を養い、学校にも行かせ
自らの会社を発展させ続け、子供や孫を慈しみ、
望みもしなかった病気と闘い、
明るく自分の一生涯を使って・・・・・

家族に対する「教育」を完了させた。
11月4日(木)朝6時、病院から電話で容体の急変を告げられる。
6:15には私が一番乗りで病室に駆け込む。
呼んでも、ゆすっても、返事が無い。意識が無くなったようである。
病院から電話をもらう直前までは、かすかに意識があったようであるが
15分程度の時間差で、意識は全く無くなったようである。

母と妻が駆け付ける。
涙声で呼び続けるが、返事や反応は無い。
前日に貧血の為輸血を行ったためか、顔色はほんのり紅い。

近親者に状況を連絡する。いよいよ恐れていたことが起きようとしている。
前日の様子からは想像もしなかった事態である。

母は少しばかり動揺している様子だが、オロオロしている訳でもない。
既に覚悟はできている。そんな雰囲気は充分感じられた。

ここ最近は、母の状態を観ながら禁止していた病院宿泊を解く。
今夜が山のような状況なので、二人っきりで過ごす事にさせた。
弟も駆け付けて来ており、母が夕食等で自宅に戻っている間、
兄弟二人で父を見守っていた。

母が病院に戻る前に、主治医が容体を確認しに来た。
小便が出始めている。瞳孔も開いておらず、光を嫌がる様子が見える。
意識が戻る兆しが確認でき、母も回復を願いながら父の傍で
眠ることができたようであった。

私も僅かばかりではあるが、これまでのような回復の可能性を祈っていた。
10月中旬から、父の今年4回目の入院が始まった。

肺気腫を患っている父を、自宅で母の看護で見守ってきたが、
痰が喉に詰まり苦しんでいる父を見るに忍びなく、
主治医に相談して入院させてもらった。

主治医は「今年の猛暑をよく乗り越えられましたねぇ」と言い、
体力の限界を過ぎているものの、頑張っている父を快く
引き受けていただきました。

対症療法的な手当てしかできず、本格的な治療という処置には
父の体力が対応できないことも知りつつ、これまでの入院時のように
「早く良くなって、自宅に帰ろうよ!」と励まし続けました。

母にはこれまでのような病院での宿泊看護を禁止しておりましたので、
毎日朝には病院へ行き、一日中看護を続け、夕方には心配しながらも
帰宅するという毎日が続いておりました。

特に容体が急変する事も無く、父は苦しいながらも話もしたり
こちらの話も聴いて頷いてくれておりました。

11月3日(水)夕方、私が病院を訪ね、父と話をした。
「頑張って、良くなって、上大口の家に帰ろうよ!」
「おぅ!」と返事をしながら、頭を動かし頷いておりました。
「おやすみネ」と病院を退室したのが、最後の会話となりました。


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10月になるとラジオのナイター中継が終わり、通常の番組が始まります。
今年は何だろう?と聴いていると、ニッポン放送で「広瀬香美」の
1時間番組が始まりました。

生放送で「広瀬香美」がキーボードを弾きながら生歌有り、
ツイッターを使った視聴者のつぶやき有り、楽しい雰囲気です。
月曜日から金曜日まで、毎日午後7時からの1時間です。
お暇な方は聴いてみてくださいまし♪

ところで、インターネットのUSTREAMというサイトでは、
同じく「広瀬香美」が毎週金曜日に生放送をしています。
その放送の中で、「広瀬」が勝手に商品の歌を作って歌ってるんです。

最近レコーディングしたのは、
あの亀田製菓の「ハッピーターン250%」です^^

一度聴いたらついつい口ずさんでしまうような、軽快なメロディ。
正式に亀田製菓と契約して、亀田製菓サンクスデーには
ビッグスワンで歌って欲しいと願うオジサンでありましたとさ^^♪


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SHANG(しゃん)
年齢:
70
性別:
男性
誕生日:
1954/10/31
職業:
自営業(設備・リフォーム)
趣味:
サッカー観戦、歴史本、水道管ゲーム
自己紹介:
他人の笑顔が大好きなんです。
家では「極楽トンボ」と呼ばれたい。
50代にして、日々成長?を続けるメタボな僕。
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